夜に泣く
2010.01.17
遠くの道を、暴走バイクが走っていく。交通量は少ないようだ。意に反して部屋は暗闇に満たされてはいない。マンションの通路の常夜灯が明る過ぎるからだ。
枕元に置かれた目覚し時計を見る。3時5分過ぎ、ということは2時50分だ。私は目覚し時計を必ず15分進めている。何時から始めた習慣かは忘れてしまった。ベッドから出てテレビを点けた時、思っていた時間より早ければ(例えそれが15分だけでも)仕度する私の心に余裕が生まれるが、思っていた時間より遅ければ(例えそれが1分だったとしても)焦りに変わる。自分の性格を把握したうえでの苦肉の策である。最も、目覚し時計の時刻など殆ど見ないし、必要になるのは起きる時だけなので、15分進んでいることで生活の一部に大きな障害が発生したことはない。
ベッドから体を起して、夜の気配を確かめる。マンションの他の住人が起きてはいない気配だ。車が1台、近くの道を通り過ぎて行った。
涙が頬を伝う。
午前3時。
失われる者について泣くには最も相応しい時刻だ。
もう少し若い頃、病を発症する前は、私自信が失う者の事しか考えていなかった。人は生きていると、家族や友人を何らかの理由で失う事になる。それが永遠であれ一時的であれ、誰一人失わずに生きていくことはできない。だが、それは辛い。辛いから避けたい。いずれ自分一人になるのではないかと恐れ、落ち込んだり、対人トラブルに発展してしまったりする。それも生きていく中では避けられない事だし、嘆き悲しんだところで、いずれは受け入れ、うまく昇華していかなければならないことである。生きていく中で誰一人失わないなんて有得ないことなのだ。
だが、人は気付かない。そして一人で落ち込んでしまう。
今の私は誰かを失う事に興味がない。私が失う人より、私を失う人の方が遥かに多い。私が泣いているのは、私の為ではなく、私を失う誰かの為だ。
退院してから暫くは身辺整理をしていた。やり残した事を遣り終え、新しく始める事は止めて、出来るだけ付き合う人の数を少なくした。まるで、死に急いでいるような毎日だった。
だが、人生はそう簡単に終わらない。
要介護状態になってしまった両親を引き取った。随分歳下の仲のいい女友達とおしゃべりしたり、食事をしたりするようになった。一人で見ていたはずのサッカーを一緒に見る人ができた。ひっそりと静まり返っていた私の周りは急に騒がしくなってしまった。
私を失う人の数が増えてしまったのだ。
人生は思うようにいかない。一人ぼっちでも良くなったら、誰かが一人にはしてくれない。
だから、私は私を失う誰かの為に泣く。
救急車が大きな通りの角を曲がっていった。車のクラクションが響く。
私は再びベッドに横になり、そっと目を閉じる。
暗闇の向こうから、この部屋には居ないはずのその誰かの寝息が聞こえる。
私は眠りの中に戻っていく。
井戸の底を照らしていた光は失われ、水が増してくる。やがて井戸は新しい水で満たされ、底は再び見えなくなる。
