後味の悪いワイン
アントン・カラスのホイリゲ
2008.03.29
ウィーンの街を歩いていて、ふと思い出す曲がある。ホイリゲからの帰り、薄暗い石畳の路地を歩いていると、お約束の曲が頭を巡る。チターの響き。映画「第三の男」のテーマ曲はウィーンの夜に似合う。
戦後の瓦礫の山と化したウィーンを見せられてしまう「第三の男」だが、映画に登場した場所は姿を変えたりしながらも、今でもウィーンの中に点在している。一番有名なのはプラター(Prater)の観覧車。映画の舞台になった場所を巡るツアーもあるみたいなので、好きな人は参加するのもいいかもしれない。思いがけない場所で映画の場面と再開できる。
さて、この映画のテーマ曲を作り、演奏したのはアントン・カラス(Anton Karas)である。アントン・カラスはウィーン生まれの生粋のウィーンっ子で、シーヴェリンク(Sieverring)のホイリゲで楽師をしていた。観光客の多いホイリゲには欠かせない、シュランメル音楽の楽師だったのである。そしてカラスは「第三の男」のテーマ一曲だけで、この楽師を飛び越え、世界でもかなり有名な作曲兼演奏家になってしまった人である。
成功したカラスはウィーンに戻り、馴染みのシーヴェリンクにホイリゲを開く。勿論、葡萄農家でないカラスが開いたのは、ホイリゲもどきレストランである。「偽物かよ。」と言いたいところだが、これもちゃんとしたホイリゲの形だ。ホイリゲというのはなかなかややこしい制度の下に営業されていて、ウィーン市の条例の中では2つに分けられている。いわゆる本当のホイリゲとホイリゲ風レストランだ。市でも認められている以上、偽物とは言い難い。
カラスのホイリゲは、彼の生演奏を聴けることもあり、かなり繁盛したようである。地元の人は皆無に近かったようだが、観光客が詰め掛けた。各国のマスコミでも取上げられ、連日満員状態だったようだ。殆どはアメリカ人、日本人も多かったらしい。
だが、カラスはホイリゲを閉める。
理由はホイリゲの営業許可が下りなかったからである。カラスのホイリゲは、元々別の人がホイリゲ風レストランとして営業していた店で、カラスは店を買い取った時、その営業権も一緒に買い取ったと思っていたらしい。だが、実際はそうではなかった。裁判にまで持ち込まれ、カラスはホイリゲを閉めるしかなかった。
さて、本当にそうなのだろうか?
そこにはウィーン特有の何かが見え隠れする。隣の人が有名になったら、急に貶し出す気風。そしてカラスという、明らかにドイツ系ではない名前への思い。ウィーンという街の底辺に蔓延っている、得体の知れない影。カラスは音楽の世界でもウィーンから抹殺されている。
後味の悪いワインだ。後には観光客に中途半端に見放されたホイリゲ街だけが残った。シーヴェリンクは恐らく、隣のホイリゲ街グリンツィング(Grinzing)に勝つことはできないだろう。
カラスの曲は今も響く。ウィーンの夜に良く似合う。どれだけ無視されても、彼の曲や功績を消す事はできない。
- アントン・カラスのホイリゲおよびその裁判につきましては、「滅びのチター師」軍司貞則著(文春文庫)を参考させていただきました。
