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オーストリア政府観光局
オーストリアワインマーケティング協会

今を生きているということ
マウトハウゼン(Mauthausen)にて

2005年

私は2000年の夏にマウトハウゼンに行く決意をした。決意といえる程大袈裟なものではなかったかもしれない。でもちょっと覗いてやろう程度の軽い気持ちではなかった。
オーストリアは第2次世界対戦中ドイツに併合されていた。だから有名なアウシュビッツの様な施設が国内に存在していたことも、なんとなくは知っていた。でも見てみようと考えたことは、正直1度もなかった。
だが以前に同じ未来を迎えることを考えたこともある人が、「彼らの考えはナチスと変わらない。彼らが議席を取るべきではない。」、そう主張していた自由党が与党の1部となり、その党首のハイダー氏が時期首相の座も狙っていたその時、私はマウトハウゼンに行くことが、オーストリア国民ではなくても、今のオーストリアを愛している者の義務であるように思われたのだ。最も愛しているものの、最も見たくない部分、それがオーストリアにおけるマウトハウゼンだったのである。
マウトハウゼンには最も遠回りをして行った。ウィーン西駅(Westbahnhof)からなら2時間のところを、フランツ・ヨーゼフ駅(Franz-Josefs-Bahnhof)より、1日に1本しかない直通列車で4時間半もかけて行ったのだ。切符を売る駅員は不機嫌だったし、車掌は「ルートを間違えているよ。」ばりの対応だった。でも私はそのルートで行った。とても最短距離では行けなかった。
フランツ・ヨーゼフ駅からドナウ河(die Donau)北岸を走り、サンクト・ファレンタイン(St. Valentin)に至るローカル線に乗ることは、私の長年の夢だった。私は楽しい事と、あまり楽しくない事を組み合わせることにした。そうでなければ、どこかで戻って来そうな気がしたからだ。
フランツ・ヨーゼフ駅から4時間半もかけてたどり着いたマウトハウゼンの駅は、オーストリアのローカル線によく見られる規模の小さな駅だった。だがちゃんと窓口があった。(この規模の駅では自動発券機を置いているだけの無人駅、または人は常駐しているが列車の運行業務のみ担当し、窓口業務はしていないところが多い。)私は街に向けて歩き出したのだが、収容所の方向が分からないことに気付いて引き返した。実は駅周辺に地図でもあると思っていたのだが、それらしきものが全く見当たらなかったからだ。
駅員は2人いた。窓口に出てきてくれたのは、若く愛想のいい青年だった。収容所跡に行きたいのだと言うと、映りの悪い手書きの地図をくれた。収容所跡は当然のことながら、町の郊外にある。歩いて1時間、タクシーで10分だと、彼は言った。レンタサイクルはない。それ自体がないのか、貸す物がないのか、私には聞き取れなかった。でも以前に行った方がレンタサイクルを利用したようなので、あるにはあると思われる。「タクシーを呼べばいいよ。」彼は駅の表にある公衆電話を指差して言った。
そこからが私の腕の見せ所だ。少し困った(かなり困った)顔をして、「電話・・・。」と呟く。唇を噛んで下を向く。
「いいよ、僕が電話するから。待合室で待ってて。」作戦成功。非常に悪いとは思うのだが、私はこのようにしてオーストリアの田舎で生き延びている。バスには行き先を変えさせ、乗り越しては引き返してもらう。本当に申し訳ないと思う。でもこんな田舎でタクシーを呼ぶなんて、やっぱり、かなり無理がある。
タクシーは直ぐにやってきた。私が乗り込むと河沿いの市街地を通り過ぎ、人家もないような丘の上へと向かう。そして、突然、それが見えて来る。コンクリートで出来た要塞。入口前の広場には、観光客らしき人達が数人見えるだけだ。私は運転手に乗りたいサンクト・ファレンタイン行きの列車の時間を告げ、それに間に合うように迎えに来てくれるように頼んだ。「俺じゃないかもしれないけど、誰かよこすよ。」
タクシーを見送り、私は門を潜る。コンクリートの壁があるだけの殺風景な場所だ。突き当たりの階段を上ると、ようやく入場ゲートと思われる小屋が見えてきた。私は小屋の前で大きく深呼吸して、覚悟を決めた。「大人一人」入場券がその場で切られて渡された。
夏休み期間だというのに、見学者は意外と少ない。日本人は皆無だ。ヨーロッパの観光地には欠かせないイタリア人も少ない。ガイドブックにさえ紹介されていない場所に人は来ない。オーストリア観光局が積極的に広報している様子もない。日本語のガイドブックで、この場所の紹介を見たこともない。私だってこの場所を知るのに苦労した。探さなければここには来れないのだ。
中で見たのは、収容所の跡と展示場である。案内通りに歩いた。1時間半ぐらいかけた。
入口の広場に戻りタクシーを待った。殆どの人は車あるいはバイク、自転車で来ているようだ。「日本人!」先程の運転手とは違う人が大きく叫んだ。私は手を上げて、タクシーに乗り込んだ。
駅では世話をかけた駅員にお礼を言ってから、列車を待った。乗り込むのはアメリカ人らしき若い女の子同士の2人連れが1組、列車は時間通りにやってきた。(オーストリアでは当然のことだ。列車が5分でも遅れたら、駅員は抗議に絶えなければならない。)
列車は意外と込んでいた。あの駅員が手を振っている。アメリカ人が応える。私も少し手を上げたが、彼女達に圧倒されて会釈だけにした。でも列車が動き出しドナウ河を渡る頃、私は気が付いた。
彼は私に手を振っていたのだ。
アメリカ人は関係ない。自分の好意に感謝し、嬉しそうにタクシーに乗り、戻った時もわざわざ探して礼を言った、そんな日本人に別れを告げていたのだ。私は非常に彼にすまない気持ちでいっぱいになってしまった。でも、もう遅い。
サンクト・ファレンタインの駅で列車を待っている間、私はホームの端のベンチに腰掛けていた。涙がポロポロこぼれる。あの場所で感じたことを、言葉にするのは容易ではない。ただ確かな事が1つだけある。
彼らはもう殺されない。もう殺さない。ただそこで記録として存在しているだけだ。本当に恐いのは、生きている人間だ。今を生きて、何かをしようとしている人間だ。
マウトハウゼンは美しい町である。いい人もいる。そして強制収容所の跡もある。それをただの記録にするのか、これからの人類に役立てるのか、それを決めるのも生きている人間だ。
ウィーン行きの特急列車が停車した。私は涙を拭って、生きている人間の世界に戻った。